2014-11-07 Fri
明治時代より前の旧暦では現在の太陽暦と1ヶ月前後の変動ズレがある。ざっと資料を読むと1年が11日少なく、うるう月でたまに13月があったとある。開始日にもズレが生じているのに、マスコミが旧暦廃止されてから150年弱をも経過した今でも「暦の上では何々」と季節の事を言うのはおかしい。マスコミが常に正しい事を言うなんてこれっぽっちも思ってないが、間違いとわかってることをいつまで使うのでしょうか?例:
西暦1900年1月1日 → 旧暦1899年12月1日 (一ヶ月ずれ)
西暦1950年1月1日 → 旧暦1949年11月13日 (一ヵ月半ずれ)
このように狂い続け年に4回は繰り返す「暦の上」はマスコミの絶好のネタである。異常気象でもなければ正しくないんだから、毎年クソ暑い時期でも「暦の上では秋」とか無責任より話題のほうが上に立つ彼らはネタにしてくる。こんなの いい加減にして欲しいものです。
何ら説明することもなく、正しいかのように間違った基準と照らし合わせて季節を語る
科学を基にしてる気象予報士が暦の上ではと言う
テレビ局なんて裏では尺貫法を使ってたり、派遣や契約社員がどうのと語りながら自分らは正社員にしたくないから期間内で契約を打ち切る状況証拠があり矛盾に満ちた溢れた機関なんだと思って見ている。
紙媒体もだが正確性よりもネタとなるかや、言葉のニュアンスが優先され嘘さえばら撒く。正確性を謳っているのは彼らのほうであるのに多くの間違いを平然と使い続ける点からも表向きの主張とは矛盾した報道機関と思うしかない。
旧暦で何々とだけ言うのに文句はない
暦の上では何々だが、まだ寒いとか暑いとか、永遠の間違いを語るのはおかしい
という意見。
<東京ドーム何個分!?>
これも大馬鹿な比較表現である。稀な例だろうが、ある番組では外国に行ってまで大きさを尋ねるのに「東京ドーム何個くらい?」と外国人に尋ねるから呆れた(当然、東京ドームなんて知らねぇと言われる)。変な思想の制作者にはこうした芸人のリポートが笑えるのかもしれないが、世間一般としては日本の恥さらし行為にしか見えない。このバカなやり取りを放送してる時点でおかしい。
国内でも東京都文京区にある東京ドームを現実に見てない人たちが大部分であるのに、それを比較対象とするのは頭が悪すぎる。学校にあるような25メートルプールが何個と言ったほうが大多数に語るうえで認識される可能性が桁違いに高い。
なぜ、こうした比較対象としてふさわしくない基準を使うのか!?
<過去投稿より再編集>
時代錯誤と言えば基準にされてるNHKが問題なのだが、「10円」をどう読む? 大部分が「じゅうえん」であり、20円は「にじゅうえん」で「にじぃーえん」と言うのは僕の小さいころでも、かすかに聞いたのは地方の老人であり東京都で明治初期生まれな方からそのような発音を聞いたことがなかった(「ひ」→「し」はある)。それをいまだに聞くのはラジオとテレビだけ。「降水確率は、さんじっパーセントです」などと言わされている。
「約」が「百」と聞き間違えるから「およそ」と読み代えると言ってるのはテレビ局であるから、現在の大多数が使ってない時代錯誤な発音をキャスターに強要させるのは“聞き間違い”が起こらないとでも言うのだろうか?ここでも矛盾している。NHKのアクセント辞典を守る必要があるのか?
「十銭」と「十選」どころか「実践」とに比べたら、「約」と「百」など聞き間違いしない。
間違った世間に対して正しいことを言い続けようとしているのはアナウンサー(ニュースキャスター)だが、同時に間違えを広めてるのは同じテレビ出演者たちでもある。アナウンサーですら嘘の意味やら完全に捏造された外国語(ボリューミー等)を使うのは私の耳で何度も聞いてる。もはや、雨は降ってない雨が降りそうなさまの意味である“雨模様”は「雨が降っている状態」としか使われてないが、文字からして「雨な模様」と捉えてしまうのは変じゃない。
アナウンサーが正しく言い続けてるのは、れい(零 = 0)だね。ゼロはZEROであって日本語ではありませんから世間は理解に苦しむ使い方をしてる。例えるなら「Aいうえお」って具合か。 zero one two... と言ってたら文句は言わない。このように「ぜろ いち に さん」とか言ってる奴は「藪からスティック」を小ばかにできる状態にないのです。学校の先生が堂々とゼロと言う。上記各件、教育機関からして間違ったことを教えている。
コンピューター用のハードディスク(ハードドライブ)を日本語で言うとしたら固定設置型円盤回転式磁気記憶装置みたいな感じで、ややこしいように日本語として存在しないのが外来語として取り込まれるのと、当方が言うのでは全く違ってるから、私の主張は矛盾してない。
(HARD DRIVEの正式日本名は不明。長いが単語つなげて名称にすると意味まで明瞭になる)
前から指摘しているが、「憎悪を伴う復讐」の意味なのに軽々しくリベンジを使うし、「尊敬」という日本語がリスペクトなる軽い言葉にされてしまう未来など見たくもない。どうやら日本人ってのは自らの言語に誇りすら持ってないのかもしれない。過去を見るなら何かと取り入れて変わりまくる民族なのでしょうが、あまりにも期間が短すぎるし変わり方が間抜けすぎる。
こんなことなら、”じーえん(10円)、にじぃーえん(20円)”のほうがマシじゃない。
この記事に対するコメントの受付は終了しています。
コメント
先頭へ △