2020-01-16 Thu
2020年1月15日放送 フジテレビ「直撃LIVE グッディ!」昨年の12月13~15日あたりに調べて投稿した とんど焼き、どんと焼き、どんどん焼、左義長 にて不道徳行為が蔓延していたようだ。お焚き上げ(どんと焼き)する物じゃなく祭祀関係の物を持ち込むくらいの勘違いなら怒るってほどじゃないが、神社(神道)なのに仏具が持ち込まれていたり、単なるゴミみたいなのまで持ち込まれていた。
鏡餅を持ち込む奴に呆れたとしても単なるアホで片付けることができるが、プラスティックの入れ物を捨てる奴がいたわけで、もう頭おかしいレベルにまで落ちぶれている。
核家族化、少子化によって地域コミュニティーが崩壊したからのような事が語られていたが、不法投棄に関しては「誰も見てない」で犯罪者へ落ちるのは地方の人間の得意技だとの状況証拠はいくらでもある。
微々たる罪悪感がある連中が家庭ゴミとして処分できないから、丁度良い機会だと思って行事にかこつけて捨てるのだろう。加えて、ゴミ問題が勃発した理由に税収で成り立っている大都市以外でのゴミ出しは有料だってことが原因である。
だから観光地で売っておきながらゴミ箱がなくて困ると苦情を出すと「外に置いておくと関係ないもの(または家庭ゴミ)を捨てられるので置いておけないと言われたことがある。だから持ち歩くなら最後まで持ち歩くか、自販機では買えず、引き取ってもらうべく必ず誰かいる商店で、その場で飲み干すしかなかった。
まとめれば所詮、人間が人間だけで考えたこと
カンニング竹山も希には真っ当なことを言う。このあたりをネタにしようとして調べを蓄積してきた。同じでなければいけないのにルールが狂いまくっていたり、修業と称して、あることをするとお経を唱えたのと同じだとか手抜き手段が多数用意されているよう矛盾の塊。何々教、何々宗派と分離した存在からして矛盾、仏教も宗派が異なるだけで世界観が全然違う。脅威と言えば地球には神の名を持ち出しテメエらの都合によって殺戮を繰り返す野蛮人すらいるが天罰が落ちない。
以前より歴史系のテレビ番組にて語られてきたことに寺と神社の区別がなかったこと、作法も神仏分離令までなかったと紹介されていた。そうなると明治時代以降に新聞か誰かの御触れにて二礼二拍手一礼が一般的になり、決め事なんてなかったから複数の作法が生まれたか残ったのではないか。
神様なら参道など必要としないが人間の知能で考えるから中央を歩くなってルールが発生する。仏様な寺の参道では決めごとはない。手水舎も誰かが変化させてきた。テレビ番組でごちゃごちゃ言うが、ひしゃくルールなんて近代のことでしょ。例えば意味を考えたら1杯(ひとすくい)で完結させなければならない理由がない。他者への配慮が同じならば行程は関係がない。決めれば従うのが社会の一員だから真似してるだけ。
江戸時代の精密な絵が大量に残されており神社も多数あったので見ると、時代の違いか手水舎らしきものがある所と全く見られない所があった。江戸時代の絵に見当たらなくても現在の写真を見ると全てと言える神社に手水舎が作られていた。有名な話では伊勢神宮も二見浦で祓い清めてから行くのが習わしで、その次が五十鈴川、そして手水舎と変わってる。人間の都合で決めてるから。
鈴の鳴らし方とか、その理由すら神社自身が違うことを言ってる。拍手と礼の回数も多数派は存在するが現実には多数の決まりがある。この点も心が通じるならば工程は関係がない。社会にルールが必要なように自己暗示としての決まり事が必要だと思ってきたのだろう。世界中の歴史を見ても大衆をコントロール(支配)するための事ばかりがみられる。
上記のとおり論理思考だと思うわけで、違和感を裏付ける記事を見つけた。
2017年1月4日 「ホントは何でもありなんです! 神社の作法今昔」
<資料 Google 検索数>
"どんと焼き" 約 1,140,000 件 ("どんど焼き"も同一扱いされてる)
"左義長" 約 545,000 件 (西日本で多く呼ばれる名称らしい)
"どんどん焼き" 約 231,000 件
"とんど焼き" 約 96,100 件
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微々たる罪悪感がある連中が家庭ゴミとして処分できないから、丁度良い機会だと思って行事にかこつけて捨てるのだろう。加えて、ゴミ問題が勃発した理由に税収で成り立っている大都市以外でのゴミ出しは有料だってことが原因である。
だから観光地で売っておきながらゴミ箱がなくて困ると苦情を出すと「外に置いておくと関係ないもの(または家庭ゴミ)を捨てられるので置いておけないと言われたことがある。だから持ち歩くなら最後まで持ち歩くか、自販機では買えず、引き取ってもらうべく必ず誰かいる商店で、その場で飲み干すしかなかった。
まとめれば所詮、人間が人間だけで考えたこと
カンニング竹山も希には真っ当なことを言う。このあたりをネタにしようとして調べを蓄積してきた。同じでなければいけないのにルールが狂いまくっていたり、修業と称して、あることをするとお経を唱えたのと同じだとか手抜き手段が多数用意されているよう矛盾の塊。何々教、何々宗派と分離した存在からして矛盾、仏教も宗派が異なるだけで世界観が全然違う。脅威と言えば地球には神の名を持ち出しテメエらの都合によって殺戮を繰り返す野蛮人すらいるが天罰が落ちない。
以前より歴史系のテレビ番組にて語られてきたことに寺と神社の区別がなかったこと、作法も神仏分離令までなかったと紹介されていた。そうなると明治時代以降に新聞か誰かの御触れにて二礼二拍手一礼が一般的になり、決め事なんてなかったから複数の作法が生まれたか残ったのではないか。
神様なら参道など必要としないが人間の知能で考えるから中央を歩くなってルールが発生する。仏様な寺の参道では決めごとはない。手水舎も誰かが変化させてきた。テレビ番組でごちゃごちゃ言うが、ひしゃくルールなんて近代のことでしょ。例えば意味を考えたら1杯(ひとすくい)で完結させなければならない理由がない。他者への配慮が同じならば行程は関係がない。決めれば従うのが社会の一員だから真似してるだけ。
江戸時代の精密な絵が大量に残されており神社も多数あったので見ると、時代の違いか手水舎らしきものがある所と全く見られない所があった。江戸時代の絵に見当たらなくても現在の写真を見ると全てと言える神社に手水舎が作られていた。有名な話では伊勢神宮も二見浦で祓い清めてから行くのが習わしで、その次が五十鈴川、そして手水舎と変わってる。人間の都合で決めてるから。
鈴の鳴らし方とか、その理由すら神社自身が違うことを言ってる。拍手と礼の回数も多数派は存在するが現実には多数の決まりがある。この点も心が通じるならば工程は関係がない。社会にルールが必要なように自己暗示としての決まり事が必要だと思ってきたのだろう。世界中の歴史を見ても大衆をコントロール(支配)するための事ばかりがみられる。
上記のとおり論理思考だと思うわけで、違和感を裏付ける記事を見つけた。
2017年1月4日 「ホントは何でもありなんです! 神社の作法今昔」
<資料 Google 検索数>
"どんと焼き" 約 1,140,000 件 ("どんど焼き"も同一扱いされてる)
"左義長" 約 545,000 件 (西日本で多く呼ばれる名称らしい)
"どんどん焼き" 約 231,000 件
"とんど焼き" 約 96,100 件
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| emisaki | 2020-01-16 Thu 21:27 | 大衆媒体::テレビ全般 |
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