2020-09-29 Tue
ずっと指摘してきた。罪悪感を持つこともなく、悪事を働いても被害者に出くわさない生活環境が犯罪を犯罪とも思えなくなる哀れな人間たちを生み出すと。外国と同じ環境が同種の自分勝手な人間、いわゆる自己中心的にしてしまう。松阪市の商店街の件を思い出すが、正直爺さんの過激行為は別として、「テメエん家(ち)の前はテメエん家(ち)にあらず」も理解できない哀れな人間で埋め尽くされた街は日本中にある。道路に勝手に店を広げる、勝手に物を置く(常態化)、挙げ句の果てには勝手に畑も各所で見かけた。
ながらスマホにヘッドホンステレオで音楽聴きながら歩きが大悪事であること理解するはずもない。
本件は窃盗罪だが、違法でないことでも人の道に外れる行為はいくらでもあるのだ。
そこからくるように「俺のものは俺の物、お前の物も俺の物」って仰天思想に育ってしまった連中だと言うことを理解して対処せねばならない。幼少期から小さな罪悪感も植え付けず悪い事を見逃してしまえば、罪を次々と重ね大罪へ進むことは日本でも外国の例でも判明している。
親どころか爺さん婆さんから罪悪感を持ってないのだから子に教育できる人がいないのである。
常に大勢の他人と関わることがない場所は子育て環境としては最悪。自己中の養殖場だ。
「カゴパク」とはスーパーマーケットのカゴを持ち去る(窃盗)とのことだが、それが起きる複合要因は“地方症”なる自己中を生み出してきた環境と車社会である。都会であると徒歩でスーパーマーケットへ行くことが大部分だったり、駐車場があっても常時いる店員によってカゴを店外に持ち出すことを認めないため「カゴパク」を生み出す状況にない。だから本質的に同族であっても犯罪が起きない。
遺伝的に認識できないこともあろうが正しい教育ができる環境がないことが原因。最大の問題は「三つ子の魂百まで」であること。誰であれ、どこであっても幼少期において本質的に人間形成が完了してしまうから「郷に入っては郷に従え」なる言葉も消失し「馬鹿は死ななきゃ治らない」状態である。
その証拠に大勢に見られた「逆ギレ」反応である。テレビでの反応からすると、不道徳や犯罪を指摘されても悪びれた様子の欠片もない某国人と全く同じ反応だった。
私が東京にて激増したクズどもと戦ってきて統計と呼べるほどの数からわかったのが、奴らはテメエが犯罪者という自覚症状が全くないため厳密には逆ギレとは違い、難癖を付けられたから怒り返しただけだと思ってる。
だから泥棒なのに泥棒が悪いと思ってない。これだけでイカレてる証拠としては十分。
例えば、自己中を咎められ逆ギレから東名高速道路上での「あおり運転」の末に死に至らしめる行為をした石橋和歩被告が要求したと証言されたが犯罪者の糞野郎のくせに犯行時に被害者に「謝れ」と要求したこと。
犯罪者に向かって注意したのに謝れと言い返されるのは私自身も経験したが、もうそれは頭がおかしい奴としか思えない。各所で同種の事件が起きたから共通した症状。自分勝手や犯罪行為を自覚しないんだから反省もしないし、生み出す環境や症状から痴呆に倣って “地方症” という病名を付けた。
かねてより例にしてきたよう 「赤信号、誰も見てなきゃ渡ればいい」と底辺の人間の考えが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と集団化し、その集団化が罪悪感を喪失させてしまった。
連中は自分らがいかに哀れな人間かも自覚していない。万引き(窃盗)なんてするガキは若気の至りなんかではなく単なる犯罪者でしかない。ぱくる奴はぱくり続けると言っても過言ではなかろう。育て方がわかってないのだから罪を責めなければ徐々に大きな犯罪へと傾く。
後戻りできないところまで落ちた奴らが都会にやってきて完全な犯罪を繰り返すのだからひと事でもなく黙っていられるはずもない。数のチカラによって犯罪を犯罪とも思わせない事態は絶対に阻止しなければならない。
そうした自己中で頭に病気を抱えた連中が大勢の他人がいる場所へやってくると高い確率で犯罪者となってきた。「藪をつついて蛇を出す」とは愚かなことを現すが、勝手に山から殺人級が降りてくるのだから怒りは通り越している。
ポリ袋を大量に持ち帰ってる連中やカゴパク連中に店の係員が対処していたり、報道もクズどもと対峙しているが、大多数の反応からするとキチガイという言葉を持ち出すしかありません。
こういう哀れな奴らが過去より数々の事件を起こしてきた。
他人に迷惑をかけずに暮らすなんて不可能であり本物の都会人なら「お互い様」は完全に理解している。しかし、本質的に他人のことを考えられない奴らは度を超えておりお互い様なんかで許せるはずがない。他人のことを考えて行動するのが第一であり、それでも「お互い様」ってのはあるってだけだからな。
社会という大勢の他人と暮らす能力がない。何が悪いかも理解できないのだから自分を哀れに思うこともできない。犯罪者としてブタ箱に入れるのでは犯罪者自体を減らすことはできない。既に腐ってしまってる親から育つのはクソガキと解ってないのだから無理である。鳶は鷹を産まない。
統計的な事実だが、どうしてそこまで人間として劣るのか?
おのれがいかに低俗な人間であるのか知ることはあるのか?
こうしてクズ連中がまともなふりをして平然と子育てをし、更なるモンスターチルドレンを送り込んでくる。もう“地方症”を患ってるアウトランダーによる侵略は完了してしまった。我々は唯一残されたレジスタンス。
我々の敗北は外国のような犯罪者が堂々と歩く社会へ進むことを意味し、日本としての終わりとなる。それもまたアウトランダーには自覚もなく自分が真っ当だと思って完全な荒廃した社会へと向かわせてることに気づきもしない。
今度は戦争だ!っても数から勝ち目がない。皮肉なことに新型コロナウイルスは我々の味方となるべき効果をもたらしたが微々たる数でしかない。既に大金を投じて住み着いた連中が出て行くはずがなかろう。悪へ落ちることの免疫力がない連中ほど「都会」と言う麻薬からは逃れられない。
海外テレビドラマ「ウォーキングデッド」にてゾンビの襲撃から逃れるため刑務所に立て籠もって生活していたが、本当の敵はゾンビではなく頭の病気な人間だった。なんだかそんな立場に立たされている感じがするのだが、我々には立て籠もる砦もない。
アーサー・C・クラーク「CHILDHOOD'S END ~幼年期の終り~」、ほか同種の作品があるが、救いは、まだ腐っていない未来のある小さい子だけ。既に腐った大人は大いなる存在によって掻き消される。
未熟を責められるはずがない。俺だって未熟で日々精進である。
責められるべきは、自覚あるなし関係なく、平然と生きてる悪党連中のことだ。
『井の中の蛙、大海を知らず』
大増殖してきた「物事を俯瞰して見る能力」が欠如した人間が堕落した子を生み出す負の連鎖だ。
恥とも自覚せず、罪人を増やす。厚顔無恥をも越えるであろう。自覚できないことは恐ろしい。
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親どころか爺さん婆さんから罪悪感を持ってないのだから子に教育できる人がいないのである。
常に大勢の他人と関わることがない場所は子育て環境としては最悪。自己中の養殖場だ。
「カゴパク」とはスーパーマーケットのカゴを持ち去る(窃盗)とのことだが、それが起きる複合要因は“地方症”なる自己中を生み出してきた環境と車社会である。都会であると徒歩でスーパーマーケットへ行くことが大部分だったり、駐車場があっても常時いる店員によってカゴを店外に持ち出すことを認めないため「カゴパク」を生み出す状況にない。だから本質的に同族であっても犯罪が起きない。
遺伝的に認識できないこともあろうが正しい教育ができる環境がないことが原因。最大の問題は「三つ子の魂百まで」であること。誰であれ、どこであっても幼少期において本質的に人間形成が完了してしまうから「郷に入っては郷に従え」なる言葉も消失し「馬鹿は死ななきゃ治らない」状態である。
その証拠に大勢に見られた「逆ギレ」反応である。テレビでの反応からすると、不道徳や犯罪を指摘されても悪びれた様子の欠片もない某国人と全く同じ反応だった。
私が東京にて激増したクズどもと戦ってきて統計と呼べるほどの数からわかったのが、奴らはテメエが犯罪者という自覚症状が全くないため厳密には逆ギレとは違い、難癖を付けられたから怒り返しただけだと思ってる。
だから泥棒なのに泥棒が悪いと思ってない。これだけでイカレてる証拠としては十分。
例えば、自己中を咎められ逆ギレから東名高速道路上での「あおり運転」の末に死に至らしめる行為をした石橋和歩被告が要求したと証言されたが犯罪者の糞野郎のくせに犯行時に被害者に「謝れ」と要求したこと。
犯罪者に向かって注意したのに謝れと言い返されるのは私自身も経験したが、もうそれは頭がおかしい奴としか思えない。各所で同種の事件が起きたから共通した症状。自分勝手や犯罪行為を自覚しないんだから反省もしないし、生み出す環境や症状から痴呆に倣って “地方症” という病名を付けた。
かねてより例にしてきたよう 「赤信号、誰も見てなきゃ渡ればいい」と底辺の人間の考えが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と集団化し、その集団化が罪悪感を喪失させてしまった。
連中は自分らがいかに哀れな人間かも自覚していない。万引き(窃盗)なんてするガキは若気の至りなんかではなく単なる犯罪者でしかない。ぱくる奴はぱくり続けると言っても過言ではなかろう。育て方がわかってないのだから罪を責めなければ徐々に大きな犯罪へと傾く。
後戻りできないところまで落ちた奴らが都会にやってきて完全な犯罪を繰り返すのだからひと事でもなく黙っていられるはずもない。数のチカラによって犯罪を犯罪とも思わせない事態は絶対に阻止しなければならない。
そうした自己中で頭に病気を抱えた連中が大勢の他人がいる場所へやってくると高い確率で犯罪者となってきた。「藪をつついて蛇を出す」とは愚かなことを現すが、勝手に山から殺人級が降りてくるのだから怒りは通り越している。
ポリ袋を大量に持ち帰ってる連中やカゴパク連中に店の係員が対処していたり、報道もクズどもと対峙しているが、大多数の反応からするとキチガイという言葉を持ち出すしかありません。
こういう哀れな奴らが過去より数々の事件を起こしてきた。
他人に迷惑をかけずに暮らすなんて不可能であり本物の都会人なら「お互い様」は完全に理解している。しかし、本質的に他人のことを考えられない奴らは度を超えておりお互い様なんかで許せるはずがない。他人のことを考えて行動するのが第一であり、それでも「お互い様」ってのはあるってだけだからな。
社会という大勢の他人と暮らす能力がない。何が悪いかも理解できないのだから自分を哀れに思うこともできない。犯罪者としてブタ箱に入れるのでは犯罪者自体を減らすことはできない。既に腐ってしまってる親から育つのはクソガキと解ってないのだから無理である。鳶は鷹を産まない。
統計的な事実だが、どうしてそこまで人間として劣るのか?
おのれがいかに低俗な人間であるのか知ることはあるのか?
こうしてクズ連中がまともなふりをして平然と子育てをし、更なるモンスターチルドレンを送り込んでくる。もう“地方症”を患ってるアウトランダーによる侵略は完了してしまった。我々は唯一残されたレジスタンス。
我々の敗北は外国のような犯罪者が堂々と歩く社会へ進むことを意味し、日本としての終わりとなる。それもまたアウトランダーには自覚もなく自分が真っ当だと思って完全な荒廃した社会へと向かわせてることに気づきもしない。
今度は戦争だ!っても数から勝ち目がない。皮肉なことに新型コロナウイルスは我々の味方となるべき効果をもたらしたが微々たる数でしかない。既に大金を投じて住み着いた連中が出て行くはずがなかろう。悪へ落ちることの免疫力がない連中ほど「都会」と言う麻薬からは逃れられない。
海外テレビドラマ「ウォーキングデッド」にてゾンビの襲撃から逃れるため刑務所に立て籠もって生活していたが、本当の敵はゾンビではなく頭の病気な人間だった。なんだかそんな立場に立たされている感じがするのだが、我々には立て籠もる砦もない。
アーサー・C・クラーク「CHILDHOOD'S END ~幼年期の終り~」、ほか同種の作品があるが、救いは、まだ腐っていない未来のある小さい子だけ。既に腐った大人は大いなる存在によって掻き消される。
未熟を責められるはずがない。俺だって未熟で日々精進である。
責められるべきは、自覚あるなし関係なく、平然と生きてる悪党連中のことだ。
『井の中の蛙、大海を知らず』
大増殖してきた「物事を俯瞰して見る能力」が欠如した人間が堕落した子を生み出す負の連鎖だ。
恥とも自覚せず、罪人を増やす。厚顔無恥をも越えるであろう。自覚できないことは恐ろしい。
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