2015-07-17 Fri
かねてより災害大国日本や東京をなめるなと思ってた安全性よりデザインを優先した駅や公共性の高い建物の設計者と今回の新国立競技場デザインの選考人が同じ奴だとはマスコミを通じて知った。選ばれた建築家も世界的に絵に描いた餅ばかりだそうだが、競技場とはいったい何をする場所なのかを考えることができたら優先すべき事は決まっている。例えるなら、宝石を散りばめたり名前が付くだけでクソ高いブランド時計なる時刻を知る上で無駄な商品のようだ。メダリストから苦情が出るくらい競技は二の次な筋違い設計、かつ、自己顕示欲の強い建築家たちにかかれば とんでもない建物に仕上がってしまう。あのばかばかしいデザインが日本の予算をも満たした設計であると主張するのならば建設費が元の倍にもなることはない。そんなの知らんと反論するならば、なぜ世界中で建築に至らない物件ばかりに関わってきたのか? 非現実的なのを出してくる自体が詐欺に近いレベルだが、そんなことを世界中で繰り返してきたのにコンペで選んでいる側の見る目のなさにこそ怒りを覚える。設計で既に13億円も、そして違約金の可能性ってどのツラ下げて請求できるんだろう。
政治家どもは、これら誰のお金だと思ってるのか!
この件に関わる人に関連して、2015年7月17日現在、四国から山陰を台風の中心が通過したが、強風でスリッパが飛んでガラスが割れたとのニュースが入ってきた。屋根まで飛ぶことがあるのに、それくらいで危険が生じてしまうのである。天災や落下事故を予測すると都内にいくつもある周囲どころか天井までガラス張りの建物、いくら飛散ガラスであったとしても、ガラスが割れたら砂になるわけでもなく大粒の雨あられの恐怖がつきまとう。
地震でも化粧版が落ちたのは何件もあり普通の天井だって落ちてくる可能性はあるが、空まで見える危険構造とはわけがちがう。結局は見た目を優先しやがって災害対策などできた建物を設計できない奴らなのだ。
今回の新国立競技場建設を機会に建築家どもは考え直すことだ。ただただ斬新とかで祭り上げられきた建築家とやらは、絵画とかの芸術作品と建築物を勘違いしている。個人が勝手に建ててるなら知ったことではないが公共施設を設計する資格がない。駅や商業施設とか公共性の高い施設でそういう建築家に発注して建設してしまう側も悪い。くだらないデザインのおかげで日常的に非効率な上に災害時が恐ろしい施設、いい加減にしろ!
尚、スポーツ選手は自分たちの都合で意見を述べていたが、世の中の多くに対して胸を張れるような職業ではない。そういうのは球ころがしが多いが、生活必需には関わらない娯楽業にすぎない。なのに報酬と主張力がでかすぎ、偉そうに見えるのは社会(マスコミ)の洗脳による結果である。これも間違った社会構造の一つ。ゴミ清掃員より偉いはずがないのだ。日本の借金を考えれば、そんなところにカネをかけている余裕はない。石原が巨額の都税を使って誘致していた頃から頭に来ているわけで、開催が決まったからって手のひら返す恥知らずが多いのだが、私はいぜんとしてオリンピックの開催に反対だ。
新国立競技場の件では責任のたらいまわしが始まってる。税金を取り扱うのだから、とりあえず政治家をやりたい人は家族の総資産と命の捨てても良いという責任を背負うことに同意してからやってくれないか。 失敗もあるだろう。だが、やることをやってないのは失敗じゃなく恥ずべき失態。
<追記: 祝! 安倍首相が新国立競技場はゼロベースで見直しと発表>
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