2013-12-24 Tue
毎年、同時期に同じ場所に行く機会も多く、それらで感じたことや、当サイトで除外してる家族親類との旅を通しても、ここ何年かより混雑を感じるようになった。東日本大震災では急激に落ち込んだが、それは例外で震災前から旅行者の減少は肌で感じてた。客だから何年も前のデータの持ち合わせがなく、どこまで戻したか私にはわからないが、今年は旅行に限らず増えてると感じる。知り合いが飲食店であったため共にした平日の状況を思い起こしても、「平日なら撮りやすい」という近年の当たり前が当たり前じゃなくなった。私なりに判別して外国人は除外した客数を考えてのこと。
そこで観光庁(国土交通省)などのデータを調べると、外国人観光客が増えてるが、日本の海外旅行も国内旅行も増えてる。災害地域の減少も限定的とされる。前提として関係者の意見は参考程度としてる。なぜならイベントとかでよくあるが、客観的調査と主催者発表ってのには大きすぎる差がよくあるから。観光庁で現在分析結果が公表されているのは2012年(平成24年)までで、今年はまだ終わってないから中間的な分析はなく、断片的に客数が増えてるとのデータであった。
武田鉄矢氏のラジオ番組(今朝の三枚おろし 2013年8月)によると、日本人なら誰でもわかる感性も西洋人には全く理解できないという。西洋人による著作を基に例にあったのが俳句、「古池や蛙飛びこむ水の音」…静かだという言葉を一度も使わずあらわしてる。「松島や ああ松島や 松島や」…美しいという言葉を一回も使わない。西洋人にしてみれば地名を連呼しただけを美しいという表現になるのか理解できないが、日本人なら一発でわかるという。
日本人は言葉自体ではなく、言葉の指し示す果てを見るとの見解を示していた。もともと政治家の失言の話題であり、彼らはヨーロッパ的な言葉遣いをしたから失言となったので、炎上したのも俳句でやってれば何の問題もなかっとして「我が名をば 名にあらずして 数字で呼び」と即興な俳句で、病院で数字で呼ばれたとキレて書き込みを行いブログ炎上した岩手県議員の件に対して語った。
現実には議員とわかるブログに書く程度の話ではないし、病院ではプライバシーの観点から実名で呼ぶべきではない。更に最近ではバカ親によるキラキラネームという大問題がある。そこまで頭を巡らせて記述していれば炎上などしなかったであろう。
このように外国人および、通して日本人を知るべき有益だった。ここから対応の方法が学べるでしょう。失言については私も気をつけたが、伝えるには長文となるから表現が悪かっただけの場合が多い。なにぶん表現力が乏しい身なので挑発的な表現になるのが悪いところ。
外国人旅行者 年間1000万人超えニュースがある一方、ビザ緩和などにより客が増えても質が低下し、下記理由により赤字な話題も聞く。某国に限定的らしいが、持てるものならなんでもって具合に部屋から物がなくなるのだそうで、なかにはテレビすら持っていかれてしまうから鎖など対策費がかさむ。このように被害が利益の何十倍にも膨らむとのことだが、これに泣き寝入りしてるようでは未来はない。単なる窃盗犯には最初から厳正な対処をしないと泥棒行為が美談のように伝わり将来へ被害を拡大させるということが全くお分かりでない。いくら客が来ないからっても、お客様は神様ではなく道理に外れた人はいらないと選ぶべき。政府が騒いでいるように外国人旅行客は必要なのか、もしくは相手国がやってくれない教育をすることが必要。
余談だが、上記で話題にした武田鉄矢氏のラジオ番組によると、ベトナムの人は日中韓か区別がつくのだそう。日本人自身だと刷り込まれてしまって気づきもしないが区別方法は日本人なら当たり前な「礼儀」で、客のほうが偉いと考えてると日本人みたいなお金出してる側が「ありがとう(ベトナム語または英語)」だとか、食べ終わって「ごちそうさま」だとか絶対に言わないからだそうだ。客だから言う必要ない・・・そりゃそうかもしれないが、そこが日本の格式の始まりであって誇りに思うべき部分でしょう。この区別方法も単なる一例だという。調子に乗って「上から目線」をしてしまうと程度が低くなってしまうわけで、いろいろな意味から日本だからこそ「大人の目線」が必要と思う。別の放送で武田鉄矢氏は「彼ら(韓)は日本を恨むことが生きる活力だ」との見解を示してる。昨今の世界的ニュースで問題になってるよう “自分たちの歴史を自由に操る”彼らが見下しているのは日本だけではないので、そういう人達だと前提に扱う必要があろう。
連邦から見て、ロミュランとフェレンギとカーデシアと付き合うのは一筋縄ではいかない
(知らぬ人には意味不明だとわかってても、知ってる人には非常に解りやすい表現なのです)
過去に“お一人様の需要への対応を”と書いたことがあるが、武田鉄矢氏も【“日本人はこれから何を買うのか? 「超おひとりさま社会」の消費と行動”三浦展著】について扱ってる。これは既に取り沙汰されてる問題だが、本によると年間20万人減少、それが加速し2030年には計1400万人が減少、50歳以上の超おひとりさま社会ができ、人口の2割が70歳以上としてる。それが17年後の日本。そうなった年に私はまだ年金ももらえないのだから、どうなってしまうのだろうか?
(追記: 2013年の人口減少は約24万人 厚生労働省統計)
この流れから既に現在での需要の変化について述べており、団塊世代以上の英語教材売り上げ、ジム通い、ペット売り上げ増。30、40歳代の家電購入、20歳代男性の料理への関心、反対に女性の外食化と、現時点で市場が変化している。
私が思うに、核家族化によって大部屋が成り立たなくなっていたのを覆い隠していたのはバブル経済であって、そこにあぐらをかいてた経営、間違った設備投資をしてきたところほどバブル崩壊とともに消えていったであろう。
番組では更に話は展開するのだが、当サイトの扱いとして、いつも対応が後手後手である旅行業界にあてはめ警鐘を鳴らしたい。この部分なら本に書かれるまでもなく誰もが感じてることではないのだろうか。最近、はとバスの復活について何度か報道されているが、こんなのは美談ではなく復活するまで長年に渡っての大ボケのほうが問題視されるべき。会社の体質を打ち破った新しい人材がいなかったら消えたであろうし、ここまで会社がもったのが不思議。
こんなこと書いてるくらいだから、私も昔から大喧嘩をしてきたわけで、経験上、時代遅れな「上司」「経営者」は実証してやらなければ話(情報)では絶対に信用してくれなかった。だから時代の流れに乗るのは世の中の大半がそれを知ったとき。時代の変化を早く感じて対応できない奴に未来はない。
当時、企業用のビデオ編集を行うにも「ポスプロ」と呼ばれてる編集所を使うのが一般的だったが、依頼されて作るのは企業内部用だったのでたいした作品ではない。なのに編集所を使うには1時間数万円かかり、発注元の人を呼んで、その場であれこれ決めるという更に無駄な時間を費やしていたため、とんでもなく経費の無駄だと進言していた。
1995年、Win95が発売された年だが大多数のパソコンは白黒文字画面な時期、パソコン本体の何倍もの値段がしたビデオ編集基盤が刺さってる自前のMacintoshで前日にポスプロで編集したのと同じ結果を見せてやった。そこで初めて理解したようなのだが、零細企業なのに経費の概念が乏しいのには呆れた。
設備投資はしてくれずパソコンだけでやらせようとするので当時の最高速でもDV方式1時間のデータ生成に24時間かかり、編集作業で会社に缶詰にされたのは私からすると色んな面で恩を仇で返されることになる(請求書も放置されたし)。当然ながら21世紀に入ればパソコンの性能も上がり、経費もかからないからパソコンでビデオ編集するのが普通となり大部分の「ポスプロ」は消えた。今なら編集ソフトさえあれば普通の人が特別な機器なくパソコン使って編集する。
ダメな経営者は読める未来すら見ようとしない。デジカメ発売→フィルム屋つぶれる という当たり前の予測すら現実となるまで認めない。擁護する言い方をすれば、そんなこと考える余裕すらなのかもしれないが、だから時代に乗り切れない。前に指摘したが商店街がシャッター通りになるのは、スーパーマーケットができたからなんてのは単なる言い訳であって、客の立場から市場調査もせず己が出してる商品の質がわかってないからだ。余裕がないでは済まされない。
指揮系統が少ない中小企業のほうが話が早いはずが、なぜか小さい会社ほど損なことを平気ですると感じてきたのが私が付き合ってきた企業での話。世間一般ではどうなのだろうか。
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