2021-02-08 Mon
私も知らないような言葉を、なぜ少女が知ってて使ってしまうのか? 小さい頃はボロ屋に住んでたが自分の育った環境がよかったと思ったのも、そうした言葉を全く知ることもなく大人になったから。知った今、強く思うのは子供は残酷なので、まだ多くを知らず成熟してない子供が知るべき事ではない。知らなければ差別は起きない。テレビが伝えてしまうと、ただ時代遅れのもうろくジジイだってだけで世界から袋叩きにされてしまうわけだが、テレビが伝えなくてもネットニュースになれば世界に伝わり、逆輸入で知ることとなったのがローカルアイドルらしき人の差別発言ではなく差別言葉を発したことで活動停止になってしまった件だ。
某もうろくジジイのは確実に蔑視したものだが、言葉を使っただけでアウトは恐ろしい。むしろ私は言葉を言い換えて意図することを言うほうが恐ろしい。表現を変えただけで同じことを言うのが通用するなら元の言葉を使うべき。
私は青年期から社会に出るほど社会迷惑な人達の存在を知ることとなった訳だが、それからも劣化し続けるだけだったため「謂われなき差別」ではなく「天高く山積みの迷惑事から区別する」ため「地方症」という言葉を作ることになったが、どうやら「地方症」は更なる闇を抱えているようだ。
職場にて地方から来た人によって初めて知ったのが「部落差別」という言葉だったが、意味を聞かされ概念すら持ってなかった。意味と歴史から考えれば、現在の地名で京都、奈良、大阪、東京や藩である地方都市は罪人を叩き出す側だったからにすぎない。その行き先で起きたことか?
現在の東京都という枠組みで起きるなら島流し先の離島や周辺で人里離れた地域か、爺さん婆さんの話によれば渋谷、世田谷なんて原っぱなんだし、品川も新宿も宿場で江戸ではないから近くでもあるのかもしれない。ある程度の人々が住んでる場所に当時の罪人が送り込まれ集まった場所で起きるとすると地域性がありそうだ。
「村八分」があるが、その何が悪いかは「曲がった概念に基づく排他的思想」によるものだから。
それよりも集団なら「町八分」と呼ぶべきチカラのほうが大きかっただろうが、意味が全く違うのは、村八分は合理的な理由がない差別で、都市で起きたのは不届き者への教育と親切心だったから。それに対して聞く耳もたぬ者が排除されても当然である。
ですが、地方症な不届き者で埋め尽くされた東京では江戸時代のような社会教育…もはや機能していない。我が物顔をした阿呆どもが自分は真っ当だと思い込んでいるだけだ。差別ではなく、区別されるべき存在もいて、混同してはならない。
まだ日本テレビを見ていた頃だから2015年以前、早朝番組「ZIP」に出演していた姉ちゃんが「ロンパリ」と発言しての謝罪に何の事だか理解できなかった。放送当時の年齢ですら知らなかったのも特定の差別用語として使われてた言葉だったから耳にしたこともなかった。
だが、意味を知らず別の意味も存在してたら言葉狩りでしかない。逃れるためテレビに倣って馬鹿を「頭のご不自由な方」と書いたするわけで、危機感もなく空想世界の中にいる奴らを「頭の中がお花畑」「頭がお花畑」って表現するじゃないか。放送禁止用語自体の制定が異常すぎるわけで、法的に問題あるわけでもなく、放送しちゃいけないわけでもなく当事者が言うならよいのもある。
自分で首を絞めたテレビの奴らは私が今の時期になると行きたくなる場所を言うことができない。なぜならその名称が「元気な百姓達の菜の花畑」だからだ。こっち側からは「お百姓さん」と言ってたわけで、いったいどこが差別的なのか?言葉自体じゃなく意図することが問題なのだ。放送、芸能界って自分で自分の首を絞めたし、親が馬鹿と化して学業一辺倒で社会勉強をしなかった子を量産した。私が敵視しているのはそうした大多数。
そのように今回 初めて知ることとなった言葉。
どうやら「魑魅魍魎」を「えた・ひにん」と読んでしまったようだが、知らなければ偶然に読むことは無い。私はこの言葉をオッサンになってる今まで知らなかった。
ちょいと調べると士農工商で最下階級の不満を逸らすために更に下を作ったのが「えた(穢多)・ひにん(非人)」と説明されていた。現代の知識で考えれば「士農工商」が現実の階級じゃなく「士>>農=工=商」だったのだし、訳の解らない下層を作って不満なんて解消することができたのか?
江戸時代の闇とも言えるが現代のほうが恐ろしいのではないか。江戸時代からあったが近代に大きくなった問題なんじゃないの? 同じ日本、同じ時間軸、同じ情報にアクセスできるのに数十年、数百年と思想が遅れている人達が存在している。だから特定の地域だと「部落差別」も「村八分」も現在形だってことを感じる。
「部落差別」は、それが生じる地域で過去より現代人が大きくし、更に資料を調べると政府の対策の資金に群がるハイエナな個人や市町村も存在していた。形は違うが「ふるさと納税」に群がって哀れな行為に至った自治体があるから、いつの時代も同じか?
「村八分」事件では2年ほど前に奈良県天理市で起きたのを思い出す。そこから調べたとき各地で起きていたが、起きるような状況は酷似していた。
「部落差別」に「村八分」を調べていて事件報道以外で出てきたのが、奈良県教育委員会「同和教育の手びき」とやらがあり、同和問題(部落問題)に対して東京都や他に少し調べた自治体だと総務省の受け売り程度だが、奈良県が濃い内容となっているのは偶然なのだろうか? そこから掘り下げると、ある種の地域では強く伝えられていた。そこから発生する地域が見えてくる。
現在、西暦2021年(令和3年)。どういう奴らが、どうやって子に部落差別を植え付けてきたのか? そういう奴らって私が敵視している真っ当に集団社会生活が送れない連中なのではないか!?
参考文献:
・「部落史の見直し」と部落問題学習 …奈良県ウェブサイト 同和問題関係史料センター
・「身分差別社会の真実」…斎藤洋一、大石慎三郎 講談社「現代新書」
・ほか、都道府県 同和問題ウェブページ
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私は青年期から社会に出るほど社会迷惑な人達の存在を知ることとなった訳だが、それからも劣化し続けるだけだったため「謂われなき差別」ではなく「天高く山積みの迷惑事から区別する」ため「地方症」という言葉を作ることになったが、どうやら「地方症」は更なる闇を抱えているようだ。
職場にて地方から来た人によって初めて知ったのが「部落差別」という言葉だったが、意味を聞かされ概念すら持ってなかった。意味と歴史から考えれば、現在の地名で京都、奈良、大阪、東京や藩である地方都市は罪人を叩き出す側だったからにすぎない。その行き先で起きたことか?
現在の東京都という枠組みで起きるなら島流し先の離島や周辺で人里離れた地域か、爺さん婆さんの話によれば渋谷、世田谷なんて原っぱなんだし、品川も新宿も宿場で江戸ではないから近くでもあるのかもしれない。ある程度の人々が住んでる場所に当時の罪人が送り込まれ集まった場所で起きるとすると地域性がありそうだ。
「村八分」があるが、その何が悪いかは「曲がった概念に基づく排他的思想」によるものだから。
それよりも集団なら「町八分」と呼ぶべきチカラのほうが大きかっただろうが、意味が全く違うのは、村八分は合理的な理由がない差別で、都市で起きたのは不届き者への教育と親切心だったから。それに対して聞く耳もたぬ者が排除されても当然である。
ですが、地方症な不届き者で埋め尽くされた東京では江戸時代のような社会教育…もはや機能していない。我が物顔をした阿呆どもが自分は真っ当だと思い込んでいるだけだ。差別ではなく、区別されるべき存在もいて、混同してはならない。
まだ日本テレビを見ていた頃だから2015年以前、早朝番組「ZIP」に出演していた姉ちゃんが「ロンパリ」と発言しての謝罪に何の事だか理解できなかった。放送当時の年齢ですら知らなかったのも特定の差別用語として使われてた言葉だったから耳にしたこともなかった。
だが、意味を知らず別の意味も存在してたら言葉狩りでしかない。逃れるためテレビに倣って馬鹿を「頭のご不自由な方」と書いたするわけで、危機感もなく空想世界の中にいる奴らを「頭の中がお花畑」「頭がお花畑」って表現するじゃないか。放送禁止用語自体の制定が異常すぎるわけで、法的に問題あるわけでもなく、放送しちゃいけないわけでもなく当事者が言うならよいのもある。
自分で首を絞めたテレビの奴らは私が今の時期になると行きたくなる場所を言うことができない。なぜならその名称が「元気な百姓達の菜の花畑」だからだ。こっち側からは「お百姓さん」と言ってたわけで、いったいどこが差別的なのか?言葉自体じゃなく意図することが問題なのだ。放送、芸能界って自分で自分の首を絞めたし、親が馬鹿と化して学業一辺倒で社会勉強をしなかった子を量産した。私が敵視しているのはそうした大多数。
そのように今回 初めて知ることとなった言葉。
どうやら「魑魅魍魎」を「えた・ひにん」と読んでしまったようだが、知らなければ偶然に読むことは無い。私はこの言葉をオッサンになってる今まで知らなかった。
ちょいと調べると士農工商で最下階級の不満を逸らすために更に下を作ったのが「えた(穢多)・ひにん(非人)」と説明されていた。現代の知識で考えれば「士農工商」が現実の階級じゃなく「士>>農=工=商」だったのだし、訳の解らない下層を作って不満なんて解消することができたのか?
江戸時代の闇とも言えるが現代のほうが恐ろしいのではないか。江戸時代からあったが近代に大きくなった問題なんじゃないの? 同じ日本、同じ時間軸、同じ情報にアクセスできるのに数十年、数百年と思想が遅れている人達が存在している。だから特定の地域だと「部落差別」も「村八分」も現在形だってことを感じる。
「部落差別」は、それが生じる地域で過去より現代人が大きくし、更に資料を調べると政府の対策の資金に群がるハイエナな個人や市町村も存在していた。形は違うが「ふるさと納税」に群がって哀れな行為に至った自治体があるから、いつの時代も同じか?
「村八分」事件では2年ほど前に奈良県天理市で起きたのを思い出す。そこから調べたとき各地で起きていたが、起きるような状況は酷似していた。
「部落差別」に「村八分」を調べていて事件報道以外で出てきたのが、奈良県教育委員会「同和教育の手びき」とやらがあり、同和問題(部落問題)に対して東京都や他に少し調べた自治体だと総務省の受け売り程度だが、奈良県が濃い内容となっているのは偶然なのだろうか? そこから掘り下げると、ある種の地域では強く伝えられていた。そこから発生する地域が見えてくる。
現在、西暦2021年(令和3年)。どういう奴らが、どうやって子に部落差別を植え付けてきたのか? そういう奴らって私が敵視している真っ当に集団社会生活が送れない連中なのではないか!?
参考文献:
・「部落史の見直し」と部落問題学習 …奈良県ウェブサイト 同和問題関係史料センター
・「身分差別社会の真実」…斎藤洋一、大石慎三郎 講談社「現代新書」
・ほか、都道府県 同和問題ウェブページ
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