2017-09-24 Sun
2017年9月24日放送 TBS「林先生が驚く初耳学」パンプキンの話になる前の英語教育論は私も同感だ。私の場合は加えて日本企業の英語公用語も間抜けとバッサリ切り捨てるがね。それ以前に仕事ができてれば必要なとき通訳を使えば良いわけで今のは単なる敗北宣言だからだ。次に幼児教育の話でキュボロがまた登場して来年春まで手に入らないっても例によってテレビの宣伝かもしれんが何万円もして無駄だ。俺の時代なら...
「ビー玉転がし」って言ってて公園の砂場で同じ事をやってたからタダですよ。メンコ、ベーゴマ世代からの代物でも遊び方は進化させてたわけ。しかもキュボロみたい出来合いの組み合わせじゃなく玉まで泥で作ることもあったからイチからの創造。トンネル、そしてカーブは速度が出すぎるとピー玉が飛び出しちゃうからバンクを付けるわけだからコースの制作から失敗の結果の修正とか無限大で日増しに学習していった。
遊び事から得るものは多かった。今と比べたら貧弱だがTVゲームもあったけど外が一番
加えて外で遊びまくって危機にも遭遇するからこそ社会勉強や道徳を学習するのである。今なら他人が叱ってもくれないし、昔から箱入り娘って言葉もあったが男女問わず篭の中の鳥のごとく何から何まで監視下で育てられ右も左もわからぬが、いきなり外に放たれてる状態だから不道徳行為をしても自覚症状がないわけだ。
親は学業の未来しか見ず社会道徳や社会勉強をすっ飛ばした結果、クソガキばかりの登場によって「三つ子の魂百まで」とやらが現実だなんてとっくにわかってる。育ってから改心させるのはとてつもなく難しい。だから幼児教育が大事と偉そうに言いながらも、実は人に飼われてるハムスターが与えられた通路と回し車とか限られた世界でしか生きられないよう “篭の中の鳥” でしかないのと同じ閉ざされている。
空間認識、論理的思考力? その程度で笑わせるんじゃねーよ!
過去と今では想像力、応用力がつく基盤の次元が違うわけ。東京だから大自然には恵まれてないけど状況が違うだけでコンクリートジャングルなりに生活圏から知は得てたのだ。山と川がビルと道路に変わってただけ。
砂場はバイ菌で汚いとか潔癖の親が増えすぎてるが、公園なんて俺らの時代よりよっぽど清潔だろうし、更に先人の方々なら戦時中か戦後なわけでもっと酷かったろうに。何かと論じることの展開が筋違いになってきてるのではないか。近年の下手な過保護、異常性格のガキの多さをどう弁明するのか?
我々の世代、学力は人それぞれだし、個人的なら負けは多々あるだろうよ。それでもさ、今の連中より桁違いに道徳的に考えられるし、応用力はあると自負できるよ。頭でっかちに育てられて高学歴を得ても、そんなのは簡単に機械で代用できるからな。それがわからぬ教育ママゴンの成れの果てで哀れ。
何か突出した能力を身につけたとしても社会的には異様な人、失礼ながら例にしていただくとサバン症候群のような人みたいに育てられちゃったら人間としてどうかってのもあるし、社会で幸せに暮らせると思いますか? そんなのが理想の社会なのか!
俺としては先に学歴を得ることしか見てない教育方法は高学歴の性格異常者を量産することにしかならないと思うし、現に世間を見渡せば悪い結果を生んでいるのである。低層では大学に入れても小学中学の勉強をやり直したり、高学歴では企業に入っても社会常識を研修って二度手間ばかり。根本的に教育方法が間違ってきてるからとしか思えない。
この投稿記事の題名にした件。
我々が食べてるカボチャの英語は PUMPKIN ではなく SQUASH だとは既に当方は扱っている。フジテレビ「クイズ!金の正解!銀の正解!」で出題の間違えから論じてる。
→ 思い込みでクイズ作られても困る (2016年8月21日 投稿)
正しい言葉があるのに間違った言葉を広めて使うのは日本のマスコミの異常性かもしれない。何かと捨て置ける細かいことを訂正するくせに、大間違いを訂正する気がないのである。
お前らが思い込んで植え付けたあることの名称はウェブページ(ウェブサイト)であってホームページじゃねぇーからな!って言っても、マスコミは永遠とホームページと言い(書き)続けるのではないかと感じる。勝手に間違えて広めてるくせに、みんながそう思って仕方ないから変えないなんて北朝鮮が噛み付く言い訳と同じ稚拙で、元からお前らの責任だからお前らマスコミが正せ。
番組の後半で
日本産も台湾産も同じってマグロの話もずっと前から思ってた。魚に地名産地など存在せず、本当に○○産と言えるのは養殖だけ。“○○のマグロ”も津軽海峡なら北海道で水揚げされても同じだから俺なら北海道側のを買うよ。漁法、処理が違うなどぬかすわけだが特筆すべき点はなく、深く調べるほど決定的でないことがわかった。
男は論理思考だから性能に払うカネはあっても名前に払うカネなんて1円もない。
いくら品質っても上限はほぼ決まってるが、それを逸脱した値札が付いてるのがいわゆる“ブランド物”の呼ばれる品だ。本末転倒な評価で通常は製品(商品)の後にメーカー名が付いてくるのに、メーカー名が先に来てしまってる。それを示すように、男女問わずブランド品を身につけることで納得してコーディネートが狂ってる人をちょくちょく見かける。そこだけ見せつけてるかのようだ。
数年前にファストファッションとして様変わりしたわけだが、そこだけで今でも価値を見誤ってる商品が売買されている。生活はこのままで社会全体が正しい目を持つ日は来るのだろうか。例えるならば数百万円の腕時計よりも数十万円の原子時計のほうが確実に「時計」である。付加価値への対価ってのにも限度ってのが必要なのだ。
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