2018-06-23 Sat
千葉のバスで乗務員が客に暴言を吐いたってことがニュースになっていたが、暴言が前面に出て客側の行動が捨て置かれるのは危険である。私が小さい頃から都市部では運行ダイヤが重要であって、乗れなかった客は次を待つのが当たり前である。なぜ、ここにきて乗せろってドアを叩く奴が登場するのか不思議である。そして揉め事は運転手が全て悪いと思われてしまってはいけない...客の無謀行為に考えられる原因は老人性の病と例の過疎地の性格ってことになる。
幼少期に感じてきたことは大人や老人からは社会教育される(悪さすれば叱られる)であったが現代は他人に叱る能力もない暴走老人が増えてしまった。交通戦争と言われた時代と違って死人は減ったものの、運転にしても歩行者としても傍若無人は加速している。
状況証拠からも明白な老人の「わがまま」ぶりは加害者にも被害者にもなってる。それ以前から地域性の違いによる脅威を感じており、とんでもないスピード違反で路地を走れる奴が全く理解できない。
地域性の問題だが、ドアを叩いてまで乗せろって言った奴の脳内では「乗り遅れたら1~2時間バスがない」って精神状態になっており、加えて老人性の短気症状が加わったものだと考えられる。普通なら千葉駅だし、10分も待てば次のバスがあるだろうってなるわけだが老人はそうならない。
動けないくせに「せっかち」が加速され、社会迷惑の死に至る事例は全国に数え切れないほどある。希に車椅子の車輪が線路の隙間に挟まって電車に接触で死に至ることが強く伝わるのだが、道路も含めて大部分は無謀横断が原因としか思えない。
本件は、もう出発しちゃったのに待てないって病気なのだが、道路であると「渡れないのに信号が待てない」「信号がないところを渡る」など精神構造の病として社会は見る必要がある。
信号と横断歩道というシステムすら守らないのは「地域性」に起因されることも大きい。信号もなくなり、交通量も少なければ、信号を守るだの横断歩道を渡るなんて概念が根付かない。
個人的人間観察で年齢に関わらず、時間経過が考慮できず、空間認識能力のない人たちが多いことがわかってる。だから、通行できるか判断できないのである。これは自動車運転となると非常に危険なのだ。十字路を右折する際に対向車と正面や側面衝突の原因はそこにある。
その能力は歩いてるだけでも常に感じることであり、私は対面から歩いてきてる人がいて前の人を追い越し不可能と判断して減速してるってのに、後ろから私共々追い越そうとする馬鹿どもが実に多くいること体験しており、その結果、対面から来る人とぐちゃぐちゃな状態になってしまう。
自動車じゃないのが救いだが、自動車は人間が運手するわけで、そんな能力しか持ってない奴が運転免許証を持ってるから年に5千人も殺されるわけだ(全ての原因ではないが能力のなさは大きな原因である)。
潜在意識下で行動できるようになるまでとことん学習するか、都市部から去っていただくしか解決策は思いつかないのであった。「町じまい」とやらを提唱しているが矛盾はしてない。田舎で町を形成して集団生活の場でのルールを遺伝子に染みつくまで学習すれば良いのである。そうすれば、老人に席も譲れない、耳を塞ぎ目も塞いで歩く不道徳行為(ながら歩き)、ベビーカーを広げて電車に乗る、リュックサック背負ったまま電車に乗ること数々の大馬鹿さも理解できるようになるだろう。
私はバカどもに対して暴言なんてしょっちゅうですよ 愛ある注意なんて、とっくに諦めました。
無知なのと最初から不道徳は違う。愛情を捧げられるような連中じゃなくなったんだ。
そして、泥棒は犯罪と同じように最初から知っていなければいけないことなのだ。
お客様は神様ですはずっと前に終了しました。それは文字通り聖人に対してのみ成り立つ!
| emisaki | 2018-06-23 Sat 08:08 | 交通::情報・考察・計画 |
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