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小松川境川親水公園@東京都江戸川区を探る 一部は机上の空論
気にしたことあるけどCBCテレビ「道との遭遇」に影響されてしまってるな。

 江東区や墨田区ではもう今の地図では解らなず江戸川区だと痕跡が残ってるため古くは農業用水路、戦後の工業時代(汚染)にはドブ川だったの追っていた。

 江戸時代に作られた浦安、行徳から運搬用の水路、今の江東区で小名木川、江戸川区で新川は解りやすい。昭和の海岸線も新左近川親水公園、市川野鳥の楽園、船橋港親水公園、ららぽーとTOKYO-BAY(船橋ヘルスセンター)、谷津バラ園(谷津遊園)の南に谷津干潟。ねずみーランドなんて昭和でも海の底。真偽は不明だが失敗しても宅地にするからって小さい頃に小耳に挟んだ。



 江戸川の河口部の支流なのか古川は古川親水公園として全域が見えていて、境川は一之江境川親水公園として更に長く新中川まで繋がってるのが見える。実際に水路としては繋がってないでしょう。

 新中川は人造のため東側を探すと都営住宅の縁に水路(椿親水緑道)が見えるが、そこから先が見えなくなってしまった。都営住宅を建てるため水路を曲げたと考えられ、椿西通りも怪しいが突然に直線状態は考えにくく、更に東に斜めに建ち並ぶ家屋のほうがもっと怪しい。

 戻って江戸川区一之江5丁目12-4 カンタンの里で鋭角に曲がってるのは異様で、北へは区民農園 西一之江第3江上しらさぎ公園のほうからも水路があった感じがする。

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 江戸川競艇場があって、小松川境川親水公園が荒川によって消えてしまう部分が東京都江戸川区西小松川町1−31だが西は中川(旧中川)につながってただろう。

 北上して今井街道と接する小松川境川親水公園、更に北上すると江戸川区役所の北側に住民立ち退きによって拡幅して作られた道路が接する八蔵橋交差点付近、更に北上すると東へ向かうのと葛飾区との境界に分かれてる(南下で見れば合流)。

 東は入り乱れ交差点の菅原橋を過ぎて新中川の小岩大橋までが見えてきた。下小岩親水緑道に繋がるのかどうかわからない。

 江戸川区と葛飾区の境界だが新小岩四丁目の鹿骨街道までは公園になってるが、そこから北は道路の完全なる暗渠、途中で分岐なのか、どちらかなのか怪しい場所がある(Googleストリートビュー 上流向き地点下流向きの地点)。

 だが、もし存在したとして総武線沿いに直線的なのは昭和の戦後に作ったドブ川だと思う。総武線を越えて北へ向かってるかもしれない(Googleストリートビュー)。総武線が通る前の地図が見つからないため不明。1945年頃だと総武線沿いに直線な人造水路、少し蛇行した道路が自然の水路か。



 葛飾区になると人造感が増してしまう。旧中川を両脇にして斜めに西井堀というのと、亀有駅付近に続く曳舟川ってのはかなり直線に近い。

 過去の綾瀬川がどうなっていたか不明だが、もし隅田川につながっていたなら曳舟川通りがあるように今の葛飾区から墨田区へ水路があったのかもしれない。
 1936年頃の写真にて、今の亀有駅から斜めにある「曳舟川親水公園通り」は四つ木付近で分岐して墨田区の曳舟川通りへと東武亀戸線 小村井駅の西側を通る道が昔は水路な模様。狭い路地でもないのに「八広はなみずき通り」が近くで平行だから怪しいと思っていたんだ。

 古地図から見えてくる東武伊勢崎線や亀戸線が意外に早く明治35年頃には開業していたのだが、荒川放水路は長期計画じゃなかったのか線路が移動させられてた。

 鐘ヶ淵駅から堀切駅の荒川沿いが直線状なのは荒川放水路が作られたからだった。東武線開業から荒川放水路の建設が始まるまで20年くらいある。巨額でも治水事業は可能ならば早くやってしまう。



 古地図で答え合わせしようとしたが東京府の頃だと範囲外であり小松川村などだと無料閲覧できるのが見つからなかった。よく探せば出てくるかもしれない。

 国土地理院にて第二次世界大戦後くらいに鮮明になる航空写真があるが、「1928年頃」とあるのは都心部のみ。よって既に荒川放水路が完成してるが新中川は完成してない。

 その時代を見るだけでも水路は見えた。旧水路を拡張して新中川になっていたりしたが、小岩側へすぐの鹿本通り(北部は東用水せせらぎ通り)も水路だったのが見えた。



 本件の場所とは違うが気になったのが戸田競艇場の付近。1945年の時点で戦時中、戦後のため競艇場なんてあるはずもなく軍事用かと思ったら1940年の幻のオリンピックのための競技場。

 更に荒川放水路を作って当然かと思うのが、現在の隅田川の恐ろしい蛇行の痕跡。現在の隅田川と荒川に分岐する前から直線状に改良されてる。

 葛飾区北部の水元公園を見て川に決まってるだろって正解だった。蛇行してる中川につながってたが蛇行した部分はもうなく直線に改造され埼玉県八潮市大瀬、新古田は中川で分断されてる。荒川放水路を作ったため江戸川区なのに平井と小松川が離れてしまったようなもの。

 そんなことで八潮市大瀬と三郷市戸ヶ崎の境界に家が建ってるが近代まで川底である。人が多く住んでおらず堤防なんて作らなかった昔は流れが変わっていたはずだから周辺だって安全とは言い難い。これ言い始めると安全な場所なんて存在しないけど江戸時代じゃなく、大正、昭和まで川なら危険度の違いはある。

こうして仕事上で外出はできないけど暇な時間が生じても楽しめることなどいくらでもある。


国土地理院地理院地図 (地図ボタンを押して年代別を選択。古い年代は大都市中心のみ)

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| emisaki | 2025-04-27 Sun 23:31 | 旅・散策::考察・批評 |